よく神社に行って
御神籤を引くとその裏に
『神の教』が載っていたりしますね!

その中の1つにこういう教えがあるのをご存じですか?

腹が立つなら一足(ひとあし)上がれ
岩の下をば水が行く、一歩(いっぽ)上がれ

世の中に尽きぬいさかいの種も
親心になり神心になって眺めれば
腹も立たぬ、憎くもない
むしろ優しい気持ちになれる
神さまご照覧のもと、穏やかな気持ちになって
導いてやれ、救ってやれ、助けてやれ
その為にもまず自分が一歩退いて
反省することが肝要である

このお言葉のように
腹が立つことがあっても
一足上がってジェントルマン的行動を
取っていくことに私は努めてきたこと。

それと『築城十年、落城一日』という言葉があるように
堪忍袋の緒が切れた一瞬の出来事で
今まで築き上げてきたことが崩壊するリスクもあり
躊躇してきた部分もありますが、
最近一度キレないとダメだなと
思うようになってきて
当時のシーサーブログに今回の内容をアップしたのが
2014年1月31日のできごと。

その内容を今日は再編集して
こちらのブログにも書いておこうと思います。

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というところで、
まずは『うまくいっている人の考え方』という本より
引用させていただきます

16 他人の思いどおりにはならない

他人の行動について不当な期待を抱く人がいる。

こういう人は自分がしてほしいと思っていることを
してもらえないと、
自分の気持ちが傷つけられたことを相手に伝える。

たとえば、
「あなたは気配りが足りない」
「思いやりがない」
「わざと不親切なことをした」と言って
相手を責めるのがそれだ。

こういう態度をとる人は、
自分のやり方に相手が従っていないようだと、
これらのセリフを使えば、
精神的に優位に立って
相手に罰を加えられることを知っている。

自分が犠牲者であるふりをして、
相手を犠牲者に仕立て上げるという戦法だ。

その目的は、相手を不安にさせて優先順位を変えさせ、
自分の言いなりにすることである。

もし相手が恥じ入って謝罪すれば、
自分が勝ち、相手を手なずけることができる。

自分の思うように相手が行動することを
期待する権利を持っている人が
この世に存在するだろうか。

もちろん、相手の同意を得ているとか
相手の行動を管理する資格があるというのなら
話は別だ。

しかし、そうでないなら、
そのような権利を持っている人は、
この世にひとりも存在しない。

あなたは礼儀正しさや、
さわやかな態度だけ心がけていればいいのであって、
自分のしたいことを犠牲にしてまで
他人を喜ばせる必要はない。

【うまくいく考え方 その16】
自分のしたいことをするのがいちばん大切だ。

※ジェリー・ミンチントン氏著作『うまくいっている人の考え方』より引用

 

自分の思い通りにならないと
(つねにその人のお気に入りの行動をしていないと)
すぐに評価を下げたり、
その行動を批判したり
敵のように見做してくる人がいる…。

ある人に親切にしているのを見かけると
私にも親切にしてくれて当然と思い込んだり、
自分にはしてくれないと拗ねたり妬んだり、
一度何か親切にすると
また親切にされて当然と勘違いする人がいたり
要求や欲求をどんどんエスカレートしてくる人もいる。

以前TBS系列で放送された
「ブラマヨ衝撃ファイル 世界のコワ~イ女たち」という番組で

小さい頃に、お父さん、お母さんの
顔色をうかがい過ぎていた人
「今日はお母さん機嫌がいいかな」
「今日は機嫌が悪いかな」によって
自分の態度を決定しなければ
ならなかった生い立ちの人いるでしょ。

そういう人は大人になって
過剰適応と私は呼ぶのですけど、
周りの人の表情をパッと感じ取って
一番機嫌が悪い人の機嫌を
取らなければいけないという
役割を演じちゃうんですよ。

そうすると一番性格に問題のある人に
すごく気に入れられちゃったり、
あるいは振り回されたりということになる。

※TBS系「ブラマヨ衝撃ファイル 世界のコワ~イ女たち」という番組で
2011年11月29日放送の中で精神科医・名越康文氏がお話しされた内容を引用

 

まさに私の父親は
いつ怒るかわからない人だったので
私はいつも父親の顔色を伺いながら
生活してきたから
そういうのを読む力が私には強いと思う。

なので周囲の人の気持ちを敏感に捉える力は
他の人より断然優れているというのは
私の1つの強みであるのと同時に

他の人が気づけないところまで気づけるから
一番性格に問題のある人などに
その能力に目を付けられ、
上手く利用される結果となってきているのも
事実である。

だから『腹が立つなら一足(ひとあし)上がれ
岩の下をば水が行く、一歩(いっぽ)上がれ』の精神で
ジェントルマン的行動を取り続けていくと
おいしいところは全部周りの人に持って行かれたり、
都合よく周りの人に利用されるだけなので、
どこかで一回キレないといけないなと感じてきていて、
あとはどのようにキレるかを
模索してきたところであります。

さて、ここで

≪7ページから≫
神経症的傾向の強い人は、
自分が悪いのに、
相手を「許せない」と感じる。

欲求不満な人も、
自分が加害者でありながら、
被害者の人を「許せない」と言っている。

※加藤諦三氏著作『どうしても「許せない」人 (ベスト新書)』より引用

 

先の挙げた『うまくいっている人の考え方』の本の中でも
「自分が犠牲者であるふりをして、
相手を犠牲者に仕立て上げるという戦法だ。」という言葉が
出てきますが、
自分の欲求が満たされないと
その欲求不満を他人へぶつける人は
自分が犠牲者、被害者であるように装いますが、
本当の犠牲者、被害者は欲求不満をぶつけられた人(側)であり、
欲求不満をぶつける人(側)が加害者であるということ!

それを欲求不満をぶつける人(側)は理解できないのだ。

なぜなら自分が正しいと考えている人、
自己正当化をする人は
自分の行動を客観視しようとしないというか、
自分の行動を客観視できない、
それは自分が正しいとしか考えておらず、
自らの心を磨こうという姿勢などないからですね・・・。

それは

≪93ページより≫
自分が勝手につくった自我像に、
他人が合わせないと言って
怒っているのである。

カレン・ホルナイは、
このようなナルシシストを神経症者とし、
彼らは「周囲の人は自分の幻想に合わせるべきだ」と
思っていると言う。

そして、彼らは周囲の人が自分のことを、
自分が思うように扱わないと、
「世の中が間違っている」と怒るのである。

≪120ページより≫
このように人を憎む原因は、
その人の欲求不満にある。

その欲求不満な人が
「あの人を許せない」と他人のことを言うとき、
本当に「許せない」のは、
その人自身なのである。

したがって「許せない」という人が
たくさんいるときには、
その人自身が心に大きな問題を
抱えていることになる。

多くの場合に、そういう人は
欲張りで欲求不満で利己主義者である。

病的エゴイストは、人を憎む。

人を「許せない」と言う。

病的エゴイストは自分のエゴイスティックな欲望の
障害になる人を憎む。

そして「あの人を許せない」と言う。

病的エゴイストは今に満足しない。

好きなものがない。
自分の時間を大切にしない。
得することしか興味がない。
いつも大もうけをすることを考えていて、
日常のささやかな喜びがない。

そういう人は最後にすべてを失ってしまう。

※加藤諦三氏著作『どうしても「許せない」人 (ベスト新書)』より引用

という言葉などでも表現されている。

この文中に「病的エゴイストは今に満足しない。」と
書いてあるが、
人間は最初はこういう病的エゴイストたちに対しても、
まぁ個性の表れだと思って付き合ったりしますが、
次第に嫌気が差してきて、
人はどんどんと離れていく、
そして病的エゴイストは
最後にすべてを失ってしまうのである。

そして、こういう病的エゴイストや
欲求不満を人にぶつけてくる人に対して、
自分がその欲求不満をぶつけられる側になってしまったら
どのようにすべきかと考えると
先にも挙げたが一度キレないといけないのである。

それは『どうしても「許せない」人 (ベスト新書)』という本にも
書かれていますが

≪27ページより≫
周囲の人があなたに相応しい扱いをしないときには、
その人と闘うべきなのである。

闘わないから馬鹿にされるのである。
闘わないから狙われるのである。

あなたは迎合すれば守られると思っている。

しかし違う。

あなたは闘うことで守られるのである。

闘うあなたの姿を見て、
周囲の人はあなたを粗末に扱ってはいけないと感じる。

闘うあなたの姿を見て、
ずるい人は、「ああ、この人は利用できない」と思って、
あなたの周囲から離れていく。

迎合とは「虐待を続けていいですよ」という
サインでもある。
あなたが迎合したら、
相手はあなたを舐める。
そしてあなたはもっと虐待される。

会社でいえば、あなたは働いた分だけの
給料をもらえない。
尽くしただけの尊厳を得られない。
恋愛でいえば、頑張っただけの愛情を
相手から得られない。
自己蔑視している女性は、
たとえばいいように浮気をされて、
浮気相手に高価なプレゼントをするために
貢がせられる。

もちろん仕事場でも、近所づきあいでも、
親戚のつきあいでも同じである。

周囲の人からは
大変なことを押しつけられ、
あなたは一生懸命にそれをする。
しかし尊敬はされない。

「都合のいい人だ」と
馬鹿にされるだけである。

あなたの中に迎合する気持ちがあれば、
あなたの努力は報われない。

逆の効果をもってしまう。

「こいつは便利だ」と
舐められるだけである。

ずるい人に迎合したら
あなたは奴隷である。

ずるい人は、
迎合する人を嗅ぎ分ける天才である。

あなたが自分に自信をもって、
迎合しないで
生きていかない限り、
必ずずるい人に嗅ぎ分けられる。

だから、けっしてずるい人に
迎合してはいけない。

≪30ページより≫
精神療法の一つ、交流分析に
「安売り」という用語がある。

自己蔑視している人は
自分の安売りを許す。

仕事でも何でも押しつけられる。
断ればいいものを断れない。
この「押しつけられタイプ」は
自分の安売りして引き受けてしまう。

「押しつけタイプ」は
「押しつけられタイプ」を
的確に見抜く。

「押しつけタイプ」はこの嫌な仕事を
誰に押しつけたらいいかを素早く判断する。

「押しつけタイプ」には
言いにくいことがない。

どんどんと言いたいことを言う。

そして自分の思うように
相手を引きずり回す。

逆に「押しつけられタイプ」は
言ってもいいことを言わない。
言いにくいことはもっと言えない。

これが、相手を振り回すタイプと、
振り回されるタイプである。

後者は、断りたい仕事を、
相手から気に入られたいがために
引き受けてしまうため、
ストレスを感じてしまう。

断りづらいから引き受けた。
しかし、それにもかかわらず
相手から軽くあしらわえる。

そうしたときに感じる
この悔しいという気持ちがストレスである。

(中略)

質の悪い人は、
「安売り」をする人を喜んで利用する。
質の悪い人は、誰を利用すればいいかを
的確に判断する。

(中略)

そしてずるい人に便利に利用される。
煽てや脅しに弱い。
やすやすと、ずうずうしい人間の
カモになってしまう。

だから得てしてこういう人は
有能で努力家なのだが、
属するグループの雑用係になってしまう。

人がやるべきことなのに
自分がやってしまう。
そして消耗する。
さらに感謝されない。

(中略)

ポーランドの哲学者タタルケヴィッチが
このように言っている。

「あなたが犠牲を払うから、
あなたは幸せになれないのです」

≪143ページより≫
自分がここまで軽く扱われてしまったのには、
自分の側にも原因がある。
心の弱さがある。

その原因をしっかり認めなければ、
同じことをまた繰り返してしまう。
原因を取り除かなければ、
同じトラブルにまた巻き込まれる。

※加藤諦三氏著作『どうしても「許せない」人 (ベスト新書)』より引用

 

確かにここまで私も軽く扱われてしまったのには
自分の側にも原因はあると私は思っている。

2013年10月に横浜市緑区の
JR横浜線踏切で倒れていた男性を助けようとした
会社員、村田奈津恵さんが電車にはねられ
死亡した事故がありましたが、

彼女と同じように私も
人の助けになりたいと
困ってる人を見過ごせぬ気質であり、
見て見ぬふりをできず
ついつい助けてしまうから
相手が図に乗ってきてしまった落ち度は
自分の側にもあったと思いますし、
無名だった私が持っている情報や自分の能力、
そして自分の価値などをアピールするためには
多少の犠牲は必要だったとは思っていますが、
アスリートってメーカーさんとかが
何でもしてくれるから
世の中が自分中心に回っていると
何か勘違いされていたり、
お前何様だ?と言いたくなるアスリートや関係者も
見えてくるようになってきました。

そしてアスリートの中には
人間的に出来ている人も見かけますが、
じゃあ、正義の味方のように
エゴイストやボスママ的存在に対して
意見を言うかというと言わないですよね。

自分が嫌われたくないから・・・。

まぁ、そういう意気地のないヤツは
いじめを見て、いじめを止められない人間と
同じレベルなんだよね…。

そういう情けない人間ばかりに
日本人アスリートやその指導者たちの多くが
なってきているということ…。

さて、ここで

女集団はズルをなにより嫌う
セーフティシフトである

同性が集まると、
男と女ではまったく異なる集団性が表れます。

まず、ここがポイント。

心理学にリスキーシフトという言葉があります。
これは男の集団で起きるもので、
例えば「俺はもっと、高い壁から飛べるぞ」
「もっとヤバいことも平気だぜ」
「俺のほうがもっとワルだぜ」と、
危ない方向へいくことを競いがちです。

「テストだけど、全然勉強していないぜ」
「もっとバカなことができるぜ」といったように、
男が集まるとリスキーな方向にと
向かってしまいます。

面白さとか、極論を個々が競うのが
男集団の心理学的特徴です。

「俺よりおまえ」「おまえよりあいつ」と、
男は集団にいながらも
個人対個人なのです。

そして、発言通りにうまくできたかどうかで、
嫌われたり、好かれたり、リスペクトされたり、
バカにされたりが決まります。

女にリスキーシフトはありません。

だから男のそういった行為が
バカに見えるのです。

女の集団は反対にセーフティシフトです。

「いま、公平な状態?」
「誰か突出して得しているヤツはいないか?」
というところに注目が集まるのが、
女の集団性です。

男集団ではリスキーシフトがとれない人は
つまらないヤツと思われますが、
女集団ではひとりだけおいしい目にあう人は、
バッシングの対象になりがちです。

※プレジデント2013年9月2日号から
心理学者・植木理恵氏が分析している部分を引用

 

まぁ、女性の場合、集まると
ネガティブなことを話し合うのがマナーだったりと
セーフティシフトがあることは理解しますが、
自分の行動特性を理解して
理性を働かせて乗り越えていくのが
人間ではないでしょうか!?

自分の感情のおもむくままに
行動を取ってしまうのだったら
それは動物と一緒!

そして最近の男性も
自分は嫌われたくないとか
良い子症候群になってきていて
リスキーな行動が取れない、
女子化が進んできていると私は感じています。

まぁ、日本も意気地のない
なんとも情けない世の中になってきたものかと思う日々…。

このぐらいガツンと書かないと
目が覚めないから敢えて書いているけど、
こうやって書いても目が覚めないアスリートや関係者も
多いんでしょうね。
傲慢で欲求不満な人間もたくさん見てきたから…。

さて、ここで

【いつもおとなしいだけじゃダメ】№1208 3/26

斎藤一人さんの心に響く言葉より…

人間いつもおとなしいだけじゃダメなんだよ。

「丸くとも、ひと角(かど)あれや、人心」、と言ってね。

人間、まんマルじゃあダメなんだよ。

ここいちばんのとき、「これ、おかしいでしょ」って言えないと。

上役に、誰もなにも言えないときにでも、
一発パツンッと言っておくと、
「あいつ、骨があるよな」って、
一目置かれるようになるの。

「あいつはおとなしそうに見えても、
言うときは言うよ」って。

だから、明らかにそういう不当なことを言う、
上役とかにね、「それ、おかしいですよ」って
パツンッと一発言うと、世間にナメられないの。

だから、一生のうち1回ね、
それやらないとダメだよ。

おとなしいだけだとナメられるんだよ。

オレ、おとなしい、って、
スゴくいいことだと思ってんの。

やさしいのも、いいことなの。

だけど、それを受け入れられる土壌がまだないんだよ。

みんなの魂がそこまで成長してない。

だからといって、腕組みして、
成長するのを待ってるだけって、
できないんだよ。

そんなことしてたら、
あと千年ぐらい、
弱いヤツがいじめられる状態が続いちゃうんだよ。

だから人間、誰だって、
一発、言わなきゃならないときがあるの。

一見すると感謝できないようなことにも
「感謝してます」と言うと、
世間が変わり、あなたの人生も変わるよ…ということを、
今まで、私は言ってきたんです。

前は「感謝してます」というと、
因果が消えて、より一層しあわせになる、
成功しちゃう人たちが、
ホントにたくさんいたんだよね。

ところが、
最近世間をぐるっと見渡したとき、
波動が変わってきちゃってて。

魂的な修行が、「感謝しています」から、
「威張っちゃイケない、ナメられちゃイケない」
に変わってきた。

今、起きている問題は、
「感謝してます」では
埒(らち)があかないケースがほとんど。

「威張っちゃイケない、
ナメられちゃイケない」を念頭に置いて、
答えを出すと、しあわせで、成功するんです。

この二つができるようになったとき、
あなたには本当の実力がついて、
世間から絶大な信用を勝ちとることができる。

『人生に成功したい人が読む本』PHP研究所

相手があきらかに悪意をもって仕掛けてくるとき、
人が好いばかりの善人はたいてい負ける。

無菌状態で育ってきた善人は、
修羅場をくぐってきた悪人に手もなくひねられる。

いつもニコニコと笑顔で好好爺然としていても、
その言動に無駄がなく、つけ入る隙(すき)がなければ
人にナメられることはない。

ナメられる人は、
「断れない」、「言い返せない」、
「オドオドしている」、「ウジウジしている」、
「衝突や対決を怖がる」
つまり、一本スジの通った反骨精神のような、
気骨や気慨(きがい)がない。

やさしさや感謝の気持が根底に必要なのは間違いない。

しかし同時に、気骨や気慨という強さも必要だ。

※2013年3月26日の『人の心に灯をともす』ブログより引用
(原文は⇒こちら

 

私が『腹が立つなら一足(ひとあし)上がれ
岩の下をば水が行く、一歩(いっぽ)上がれ』の精神で
ジェントルマン的行動を取り続けていけば、
いつかは相手が自分の愚かさに気づくかというと
そうではない。
ますますエゴや欲求不満をエスカレートしてくるだけなんだ。

だから斎藤一人さんの言うように
『おとなしいだけだとナメられるんだよ。』
『ここいちばんのとき、
「これ、おかしいでしょ」って言えないと。』
で、そこで大切になってくるのが
「これ、おかしいでしょ」っていう言い方なんです

なぜなら

というところで、

≪52ページより≫
ところが抑制型の人は
わがままを言えない。

日々我慢する。

昨日も我慢した、
一昨日も我慢した、
その前の日も、
その前の日も我慢した。

そうした長い我慢の末に、
ある日突然、爆発する。

その怒りの過程は、
「線」で見れば理解できるが、
「点」では理解できなくなっている。

不満が爆発したときには、
世の中から「点」で判断され、
批判される。
それがまた悔しい。

「あの人に前にこうされたから、
私はこうしたのだ」ということの
流れの「線」を説明しても、
暴力をふるってしまったという「点」で
判断される。

それが不当に思える。

(中略)

そして怒りが積もりに積もって
爆発したときには、
誰だって興奮して、言葉にならない。

「これはこうだから、あの人のすることは
おかしいではないか」などと
自分の気持ちを理路整然と説明する
心理的余裕はない。

生真面目な人が殴る、蹴る、叩くなどの
暴力をふるうのは、
長年にわたって抑えられてきた怒り、
憎しみ、恨み、屈辱などが、
波が砕けるように一気に
飛び散ったときである。

ことここに至るまで
追いつめられてしまう人は、
真面目で口下手、お人好しの
抑制型の人である。

彼らに「人を許しなさい」などと言うのは
酷である。

そんなことを言う人間は
人から痛めつけられた経験のない人か、
あるいは逆にずるい人で、
自分が人を利用している人であるとしか
考えられない。

※加藤諦三氏著作『どうしても「許せない」人 (ベスト新書)』より引用

 

私がどのようにキレるか、
模索してきたのも、
今まで自分の怒りの感情を抑えてきたものを出して
キレたとして、
私の生きてきたストーリーを
「線」でずっと見てきた人には
理解できるかもしれませんが、

キレた瞬間という「点」だけを見て
判断しようとする人には
理解されないからキレ方が大切だと考えてきました。

で、たとえば、ここで私がキレると
「まあまあ、そんな感情的にならないで
人を許してあげなさいよ」とか言って
また都合よく利用しようとして
骨の髄まで吸い尽くそうとするわけだ、
そういうタカリ屋は…。

さらに、ここで

≪56ページ≫
どうしても許せない。

感情的に恐喝される、
仲間に裏切られる、
逃げた人の尻拭いをさせられる、
搾取タイプの人から搾取される、
好意的サディストから弄ばれて苛められる。

感情的恐喝とは
「友達なのに、そんなこともしてくれないの?」と
いうような台詞で、
相手を追い込んでいくことである。

「お隣同士仲良く」と口では言いながら
隣人の家の堀を壊して、
自分の車が通りやすくするようなことである。

(中略)

しかし世の中は必ずしもこうした場合に、
相手が悪いとは言わない。

相手は見えないように
悪いことをするからである。

質の悪い人は証拠を残さないで
これらのことをする。

≪72ページより≫
●世の中には「どうしようもなく悪い人」がいる

イソップ物語に「農夫とヘビ」という話がある。

あるとき、ヘビが農夫の子どもを食い殺した。

農夫は仕返しをするために、
斧をもってへびの穴のところへ行き、
ヘビが出てくるのを待っていた。

すると、ヘビが首を出してのぞいたので
斧をふりおろしたが、
ヘビに逃げられてしまった。

結局仕返しは果たせず、
傍の岩を二つに割っただけだった。

そこで、農夫は仲なおりをしようと偽り、
ヘビを誘い出そうとする。

すると、ヘビは農夫にこう言った。

「割れた岩を見ては、
あなたと仲よくすることはできない。
あなただって自分の子どもの墓を見れば
仲よくすることができないでしょう」と。

ヘビタイプの人のしたたかさを知らないと、
このように嫌な思いを何度もさせられることになる。

子どもを食べられた上に
ヘビに生意気なことを言われて、
手出しができない。
悔しさでどうにかなってしまいそうだろう。

世の中では、被害者は、加害者から
何度も繰り返し痛めつけられる。

被害を受けたから加害者が謝るかと思うと、
逆にもう一度騙されることが多い。

相手はとんでもない人間なのである。

こちらの尺度でははかれない人々である。

私も偉そうなことは言えない。
アメリカで不動産屋にひどい詐欺に
あったことがある。

その不動産屋は日本人ではないのに
日本人だと言って私に近寄ってきた。

私は不動産屋に騙され、
その人を許せないので
弁護士を使って闘おうとした。

すると弁護士は私のことを
「不動産屋に騙されたあまっちょろい日本人」と
思ったのである。
そして「それなら俺もこいつを騙せる」と思った。

私はその弁護士にまた騙された。

すると別の弁護士が
「外国人を騙すなんてひどいですね。
私が弁護してあげましょう。
あなたのような誠実な外国人を守るのが
私の仕事です」と言って近寄ってきた。

しかし、その弁護士も
「不動産屋と弁護士に騙された
あまっちょろい日本人、まだ騙せる」と
思っていたのである。

私はこの事件で、「人を騙す人」の恐ろしさを
骨の髄まで体験した。

●「人を騙す人」を同じ人間と考えてはいけない

騙されたり裏切られたり、
トコトンまでやられたら、
感情に動かされてはいけない。
そのときこそ冷静にならなければいけない。

煮え湯を飲まされたら深追いしない。
煮え湯を飲ますような人は、
血も涙もない恐ろしい人である。

人間の心をもっていない。

痛い目にあったら
そのときの自分を反省して、
後は近づかない。

先のイソップのお話の中でも、
確かに農夫は不注意だったといえる。

子どもがヘビの近くに行ってしまったということは、
親である農夫が普段から子どもの周囲に
注意していなかった証拠である。

大事なものがあるときには、
常に観察していなければいけない。

逆にヘビ、つまり人を騙す人は
じっと観察している。

どの人に煮え湯を飲ませれば
利益が得られるかと、
しっかりと人を見ている。

騙される人が分かっていないのは、
自分と自分を騙す人とは、
まったく違った動物だということである。

(中略)

騙す人は自分のことしか考えていない。

こんなひどいことをしたら
相手がどれだけ苦しむか?

そんなことはまったく考えていない。

「この果実が一番うまい」という理由だけで、
彼らは人の果実を盗む。

それはちょうど幼児と同じである。

自分のことしか考えていない幼児は可愛いが、
成人にもなって幼児と同じ心理の人間を、
人は怖いと思う。

人を騙す人を観察すると、
確かに何とも異様な雰囲気を醸し出している。

自分の利益、
それが彼らの全世界である。

それ以外のものは何もない。

自分の利益のためなら、
どのような人でも騙す。

恩義のある人でも騙す。
命の恩人でも騙す。
嘘もつく。

それでいて自分がひどいことをしている
という意識がまったくない。

なぜなら彼らにとって
リアリティーのあるものは、
自分の利益だけだからである。

他人の気持ちなど彼らにとっては
何のリアリティーもない。

自分が騙した人がどれだけ傷つき、
苦しみ、滅びていっても、
何も感じない。

人に同情するということは一切ない。

もし、それがあるなら人を騙せない。

≪152ページより≫
ずるい人や自己中心的な人や
冷たい人は、この世の中には
どこでもいる。

それを責めても
どうにかなるものでもない。

「この山には、なぜ草が生えているのか」と
山を責めているようなものである。

とにかく世の中には
そうした卑怯な人は山ほどいる。

その卑怯な人に会わないで生きていければ、
それに越したことはない。

しかしこの現実の世の中で生きていく以上、
このような人と関わらないで
生きていくことはできない。

夏に林の中で蚊に刺されないように
生きていこうとするようなものである。

今から百年前にアメリカを代表する
「心の名医」ジョージ・L・ウォルトンが
書いた本がある。

その翻訳を私は依頼された(『今の悩みは無駄ではない』三笠書房)。

そこに哲人皇帝といわれる
マルクス・アウレリウスの『自省録』のことが
書いてある。

「誰かの恥ずべき行動に腹がたったときは、
すぐに自分に問いかけなさい。

『恥知らずな人間が
この世にいないということはあり得るか?』

そんなことはあり得ない。

それならあり得ないことは望むまい。

なぜなら、その人もこの世にいなくてはならない
恥知らずどものひとりだからだ。

相手がならず者や不誠実な者、
その他どんな不心得者の場合でも、
こう考えるようにすればよい」

憎しみに消耗しない。

エネルギッシュな人は
このように思っている。

恥知らずな人間は、どこの会社にも、
どこの学校にも、どこの地域社会にもいるだろう。

ある程度の数の組織になれば、
どうしても恥知らずな人間はいる。

恥知らずな人間と関わりたくないというなら
俗世をかけ離れて、山の中で
霞を食べて生きていくしかない。

また「どこの家庭にも」とは言わないが、
かなりの数の家庭にも
恥知らずな人間はいるだろう。

親戚一同を含めて、一族となれば、
その中にはどうしても恥知らずな人間はいる。

私たちはこの世に生まれてきた以上、
恥知らずな人間とは関わらないでは
生きてはいけない。

そこで弱くて純粋な人は、
痛めつけられ、弄ばれ、衰弱して
ノイローゼになって滅びていく。

「朝、まず最初に自分にこう言い聞かせなさい。
私は今日もおせっかい、恩知らず、傲慢な者、
ペテン師、嫉妬深い者、利己的な者に出会うだろう。
彼らが皆そうなってしまったのは、
何が善で何が悪かを知らないからだ」と
ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは言うが、
痛めつけられ消耗した人は
なかなかそうは納得できない。

つまりその「おせっかい、恩知らず、傲慢な者、
ペテン師、嫉妬深い者、利己的な者」は
単に「何が善で何が悪かを知らないからだ」と
割り切れるものではない。

そこまで寛容になって
彼らを許すのは難しい。

やはり、あの人は
「あまりにも恩知らずだ、
あまりにも傲慢だ、あまりにも利己的だ」と思い、
悔しくて、悔しくて、どうしようもならないのが
普通の人である。

誰でもそういう人から
ひどい目にあわされれば悔しい。許せない。

その態度を見て、
「ああ、彼は何が善で何が悪かを知らないからだ」と
思えるほど、多くの人は情緒的に成熟していない。

そこで心の中は煮え返り、
その怒りやイライラで消耗していくか、
ときにはそのマイナスの感情を抑えきれずに
相手を襲って犯罪に走ってしまう。

そうした途端、法律はある意味、
ずるい人、卑怯な人の味方になる。

この場合、法律は、
「なぜそのことが起きたか」という原点や、
世の中には本質的に純粋な人間と
本質的に卑怯な人間がいるということを
鑑みることができないことがある。

嘘つきも正直者も、
騙す人も騙される人も同じに扱う。

裁判は卑怯者も、誠実な人も同じに扱う。
裁判は形式的には平等ではあるが、
実質的にはものすごく不公平ということになる。

※加藤諦三氏著作『どうしても「許せない」人 (ベスト新書)』より引用

 

ずるい人や自己中心的な人や
冷たい人は、この世の中には
どこでもいる。

そして、こちらが、
『腹が立つなら一足(ひとあし)上がれ
岩の下をば水が行く、一歩(いっぽ)上がれ』の精神で
ジェントルマン的行動を取り続けていけば、
そういうエゴイストが通り過ぎるかというと
通り過ぎずに、
「あなたは気配りが足りない」
「思いやりがない」
「私には何もしてくれない」などのポーズを取って
精神的優位に立とうとするわけだ。

『正当以上の卑屈な努力までする必要はない』という
名言を残したのは松下幸之助氏。

私が自分のクライアントから
「きちんと対応してくれない」と言われるなら
まだ分かりますが、
赤の他人からエゴや欲求不満をぶつけられても
私には応える大義はないということ!

でも、そういうことさえ
エゴイストや欲求不満をぶつけてくる人、
自分の利益しか考えない人、
押しつけタイプなどは
気づけない困ったちゃんなわけ…。

『悪い人間に親切をすると二度ひどい目にあう。
金を失って、しかも感謝されない。』という
名言を残したのはテオグニス氏。

私は30歳ぐらいから
自分の人生よりアスリートたちの人生を優先して
応援してきたりとこの間約20年してきたけど、
現状にまず満足できない、
欲のかたまりのようなアスリートや
関係者ばかりの世界だったから
このテオグニス氏の名言の通り
『悪い人間に親切をすると二度ひどい目にあう。
金を失って、しかも感謝されない。』を
本当に痛いほど体感してきた。

だから最近は
日本のアスリートが勝とうが負けようが、
日本のスポーツ団体が勝とうが負けようが、
自分にとっては
もうどうでもよくなってきたのも事実である。

『成功には何のトリックもない』という
名言を残したのはデール・カーネギー氏。

僕が今まで自分の能力や価値をアピールするために
ブログなどで書いてきたけど
それらは他の人が気づけなかったりという隙間であったり、
手抜きをしてきた部分も多い。
成功には何のトリックもなく
10やるべきところは10やればいいわけです。
それを6や7で勝ちたいという甘い考えに走るから
成功しないだけなんだ。

それなのに自分を客観的に見て反省せず、
結果が出ない理由を他に求める
愚かなアスリートや関係者をたくさん見てきた。

私の『本物を提供したい』という思いで、
長年しつこく書いてきたりしたので
やっと最近はアスリートや関係団体も
目が覚めてきたけど
俺から言わせればまだまだやな。
ぬるいよ!

そして、まだ僕の能力や価値を
認めようとしないというのなら
一回痛い目に遭わせた方がいいと
思えるようになってきたのです。

ここで

サッカー日本代表をどう変えるのか
オシム監督の手腕と評判と私生活

外野を黙らせるためにW杯ですら
“わざと負ける”

恐らく「W杯本大会で“わざと負けた”ことのある」
唯一のサッカー指導者である。

91年にクロアチアが
旧ユーゴスラビアから独立を宣言。

熾烈な民族紛争は一層エスカレートしたが、
その何年も前からオシムは
「代表チーム(86~92年就任)における民族紛争」に
悩まされていた。

「記者が現在の分裂した国に分かれ始め、
重圧をかけてきた。

各国記者が自分の民族の選手だけを気にする。
醜いものだ」(木村元彦著『オシムの言葉』
集英社インターナショナル刊から抜粋)

90年W杯イタリア大会1次リーグ初戦。

強豪西ドイツ(当時)戦でオシムは、
司令塔3人を先発させた。

ボスニア人のスシッチ、
セルビア人のストイコビッチ(元名古屋)、
モンテネグロ人のサビチェビッチだ。

各国記者が「わが同胞を出せ」と
オシムに脅しをかけてきても、
持論の「ファンタジスタが3人いても勝てない」と
拒み続けた。

ところが、突然W杯の大舞台で
3人を先発させた。

試合前、「あの3人を同時に使えと
記者も世論もうるさかった。
だから使ってみせた。
攻撃的なMFを3人使うとどうなるか。
それを分からせたかった」と話した。

結果はどうだったか。

守備の負担がMF4人のうちの1人に押し掛かり、
センターDFがフォローしようと動き回り、
守備陣形が崩れた。

終わってみれば、1-4の大敗である。

試合後、「ようやく分かっただろう。
全員が攻撃的で守る選手がいない。
そんなことではサッカーが成立するはずがない」
(前出『オシムの言葉』から)とコメント。

記者も世論も完全に沈黙した。

数年後、「わざと負けた」と述懐。

サッカー関係者は
「W杯本大会で“負け試合”を敢行するとは」と
仰天した。

ともあれ、初戦大敗で周囲を納得させ、
2戦目から思い通りの采配をふるった。

守備能力の低かったサビチェビッチを外し、
マンマークの達人MFサバナゾビッチを投入。

攻守のバランスが良くなり、
コロンビア、UAEに連勝して
決勝トーナメントに進出した。

1回戦のスペイン戦は
「技術が高いだけではない。
人も動かし、自分も動ける」(オシム)と評価する
ストイコビッチが大活躍。

準々決勝のアルゼンチン戦では
PK戦の末に敗れたが、
前半32分に退場者を出して
10人になりながら互角の戦いを見せた。

この采配で名声はいよいよ高まった。

オシムは、ドイツW杯前に、
「中盤には“水を運ぶ選手”が必要」と
ジーコ日本の惨敗を予見していた。

「水を運ぶ選手」とは
「守備能力の高いMF(ボランチ)」の意味。

ジーコ日本のMF陣
「中村、中田英、小笠原、小野、
稲本、遠藤、福西」の中で、
「ボランチは福西しかいない。
これでは勝てない」(オシム)と
危惧していた。

ジーコ日本はオシムの見立て通りの
惨敗に終わった。

先見能力でもジーコより
はるかに高いのは疑いようのない事実だ。

この日オシムは、
21歳以下の反町監督ら各年代の
代表チームのスタッフと会議を開いた。

選手選考基準や強化について話し合った。
(つづく)

※日刊ゲンダイ2006年7月26日号より引用

 

最近、気がついても見て見ぬふりしてきているのは、
一回痛い目に遭わせないと
目が覚めないと思ってきたからです。

だから(ドラマ『ドクターX』の大門未知子の台詞のように)私、知りません!
日本のアスリートが勝とうが負けようが、
日本のスポーツ団体が勝とうが負けようが…、
という心境になってきたわけです。

こんな腐った人間の集まりだとは
思っていなかったので
関わり続けてしまったら
自己破産という人生の汚点まで
付いてしまう結果となってしまった。

自己破産の際、横浜地方裁判所へ出頭し
裁判官から『あなた方が今後再生していく上で、
負債を抱えたままでは再生をしていくは難しいことから、
債権者に多大な損害が発生した中、
あなた方は再生していくことを、よく肝に銘じ、
そして今後7年間は免責は許されないので、
そういうことをよく理解しながら
生きて欲しい』というようなニュアンスの
お言葉を頂きました。

そして私についてくださった弁護士の方も
一番最初に会ったときには
裁判官のお言葉よりも
もっともっと厳しいお言葉を
たくさん頂きました。
それは『今回はあなたにつくけど、
債権者につく場合だってあるんだ』と。

でも何回か会っていくうちに
『自己破産を扱って、
こんなにお金の出入りが
しっかり残っている人は今までいなかった』と
事務の人や弁護士の先生から言われたように、
自己破産という不名誉なことをするために
僕はやってきたわけではないのです。

でも結局は
私なりに真剣に一生懸命取り組み努力をしましたが
本当に私の力が及ばず、
そしてくだらない世界に
足を踏み入れてしまったために
債権者のみなさまには
多大なご迷惑をお掛けして
申し訳ありませんでしたm(__)m

この場をお借りして
お詫び申し上げますm(__)m

だから『もし他に方法がなければ乞食になってもいい。
しかも乞食になったらその日から、
手に入ったお金は自分のためにも、家族のためにも、
無駄なことに絶対に浪費しないという徹底的な粘り強さ。
――これさえあれば、
人間は誰でも金持ちになれるものである。』という
名言を残したフョードル・ドストエフスキー氏の言葉にある通り、
エゴイストなどが「あなたは気配りが足りない」
「思いやりがない」
「私には何もしてくれない」などのポーズを使って
精神的優位に立とうとつけこんでこようとも
無駄なことは絶対に費やさないと決めているんだ!

そしてバートランド・ラッセル氏の名言にもあるように
『私たちが愛する人々の幸福を願うのは当然である。
だが、自分達の幸福を棄ててまでこれを願うべきではない。』という
言葉があるように、自分の幸福を棄ててまで
人の幸福を優先して応援すべきではなかったと
今では反省している。

『勇敢な男は自分自身のことは
最後に考えるものである。』という名言を残したのは
フリードリヒ・フォン・シラー氏であるが、
これも時と場合によると思う。
自分を振り回すどうでもいい人間を優先して、
自分自身を最後に考えれば
骨の髄まで吸い尽くされるだけというのは
痛いほど経験したからね。

だからエゴイストなどが「あなたは気配りが足りない」
「思いやりがない」
「私には何もしてくれない」などのポーズなどを
巧みに使ってきても
無視することができるようになったし、
「教えてください」と言えない人に対しては
見て見ぬふりができるようになってきた。

相談にくれば出来る範囲で協力はしますけど、
相談にこなければ、基本的に私は知りません。

以前、ツイッターの名言で
こういう言葉が流れてきました。

『何かを「選ぶ」ことは、
同時に何かを「選ばない」ことと
表裏一体の関係にある。

僕が新潟産の米を買えば、
秋田産の米は売れなかったということであり、
A子さんがB君とつきあえば、
A子さんを好きだったC君は
自ずと失恋することになる。

だから、皆が幸せになる選択肢なんて
本当は存在しないんだと思う』

この名言のように
皆が幸せになる選択肢なんて
本当は存在しないんだよ!

でも、こういう言葉を用いても
『平等の欠点は、
誰でも自分より優れた者とのみ、
平等になりたいと願うことにある。』という
フランスの劇作家、アンリ・ベック氏の名言のように
エゴイストは
「それって平等じゃない」とか、
「公平でない」などの言葉を巧みに使って、
本来は勝手に言いがかりをつけられる相手側が被害者なのに、
相手を誹謗中傷し責め立て
自分が得することしか考えないのがエゴイストだから
困ったものだ。

今までは事業を軌道に乗せようと
生活費や活動費の捻出のために
契約社員などの副業でやり繰りしてきましたが、
エゴイストやタカリ屋を排除していかない限り
奴隷のように扱われ
とことん利用されるだけというのがわかってきた。

私たちは皆、自分の存在や尊厳が守られ、
自由に幸せを追い求める権利、
それが“人権”。

こういうことを書くと
エゴイストやタカリ屋などは
「だから私は自由に幸せを追い求める権利を
行使しているだけだ」と自分の都合のいいように
解釈しようとしますが、

最初に“私たちは皆”と書いてあるように
「お隣同士仲良く」と口では言いながら
隣人の家の堀を壊して、
自分の車が通りやすくするような一方的な行動は
“私たちは皆”には該当しませんよね!?

なぜなら
『人は他人に迷惑を掛けない範囲で自由である』という
名言を残した福澤諭吉氏のお言葉や

『互いに自由を妨げない範囲において、
我が自由を拡張すること、
これが自由の法則である』という名言を残した
カント氏のお言葉を読めば
気がつける人は気がつけるでしょう

さて『人々が自分に調和してくれるように
望むのは非常に愚かだ。』という
名言を残したのは
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ氏。
さらに『他人の厚顔無恥に腹が立つとき、
ただちに自問してみなさい。
「世の中に恥知らずの人間が
存在しないということがあり得ようか」と。
そしてそれに「あり得ない」と答えるだろう。
それならば、あり得ぬことを求めてはいけない。』という
名言を残したのはマルクス・アウレリウス氏。

人間がエゴを持つことを
否定も肯定もしません。
そして自分に調和してくれとも言いません、
なぜなら、ずるい人や自己中心的な人や
冷たい人は、この世の中にはどこにでもいるから・・・。

但し、私は、あなたの期待に添うために
生きているのでは無いということは書いておきます。

そして私はこれからも西郷隆盛氏の
『人を相手にせず、天を相手にせよ』の言葉のように
お天道さまに恥じないよう頑張っていけば良いだけなのだ、
と思う日々を今日も過ごしている。

※今日の内容は2014年1月31日に
シーサーブログの方へアップした記事を
再編集してこちらにもアップしています。
シーサーブログにアップした記事は⇒こちら

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