以前、茂木健一郎氏のツイッターを

フォローしていた時代、

何か物事が起きると

 

「これも多様性…」

「あれも多様性…」と、

 

何でも多様性と茂木健一郎氏は

認めていました。

 

たとえば水泳の北島康介氏が、

ツイッターであるつぶやきをしたときに、

確かフェンシングの太田雄貴氏が

『康介さん、このつぶやきは

トイレの中でしたでしょ』とリプを送ったら、

このやりとりを見ていた人から

140文字の文字数すべてを使って

バカ、バカ、バカ……と書かれ、

そのつぶやきを茂木健一郎氏に

「これは?」と尋ねたら、

茂木健一郎氏はこれも多様性と答えていました。

 

要するに、茂木健一郎氏の多様性って、

何でも有りの世界で、それはまるで、

たとえば、ここに道路があったとします。

「俺はアメリカかぶれだから

右側走らせてもらうぜ」という若者がいたとしたら、

これも多様性というのが

茂木健一郎氏の多様性の世界。

簡単に書くとすれば…。

 

違うでしょ!

 

きちんと道路交通法(関連法規も含む)という軸があって、

その範囲内での多様性なら許されるわけで、

たとえば俺はアメリカかぶれだから

車のボディーはアメリカンカラーにする等…。

 

もちろん、アメリカのように

日本も右側通行にしようという意見を持ったり、

右側通行に憧れたり、

そういう世界の実現を目指して

社会へ問題提起をしていく多様性は

有りだと僕は思いますが…。

 

最近、日本の社会が乱れていく一因は

茂木健一郎氏らが言う多様性の世界だと

僕は感じてきているんです。

 

たとえば、芸能や芸術の世界や、研究分野などと、

一般社会では多様性の幅が異なると

私は考えています。

 

たとえば芸能や芸術の世界ですと、

ピカソ氏のような画風であったり、

相田みつを氏のような書風もあったりと、

多様性は多岐にわたります。

 

しかし、一般社会では、

たとえば電車で降りる人が降りたから

さぁ、乗ろうとしたら、

ゆっくり席を立って

何の悪びれもなく降りる人がいても

茂木健一郎氏はこれも多様性という世界になります。

 

たとえば僕が自動車運転免許を取得するために

教習所に通っていた30年ぐらい前ですと、

第3段階をクリアして仮免許をもらうためには、

狭い用地の首都圏では

直線が短いのですが、

その短い直線道路で

(ミッション車で)ギアチェンジしながら

時速30kmは出せないと

仮免許はもらえませんでした。

 

どうしてかと言いますと、

安全が確保できている状況においては、

ある一定以上の運転(パフォーマンス)をしてもらわないと

渋滞が起きるからでしょう。

 

という例からも分かるように、

一般社会では、何でも多様性ではなくて、

(自分の個性だけではなく)

ある一定の周囲との調和も求められるというのが

私の考え方です。

 

ここで

Over Dressと

Under Dressに気をつけろ

■ルールにのっとった「個性」

白洲は「日本で最初にジーンズを穿いた男」と

言われることもある。

 

その真偽はともかく、

白洲がお洒落だったことは

誰もが証言しているし、

残された写真を見ても

それは明らかだ。

 

ベースにあるのは、

やはり英国仕込みの

トラディショナルスタイル。

 

マナーにうるさかった白洲は、

場違いな格好で登場する人物には

眉をしかめた。

 

ファッションもマナ一の一部という

考えだったのだろう。

 

白洲の娘・桂子の夫である牧山圭男によると、

「Over DressとUnder Dressに気をつけろ」というのが

白洲の口癖だったという。

 

「大袈裟にいえば、

オーバードレスとは

カジュアルなバーベキューパーティーに

スーツを着て行くようなことであり、

アンダードレスとは

フォーマルパーティーに

ポロシャツで行くようなことだろう」

 

牧山はそのように私見を述べている。

 

白洲はこのような基本を外すことなく、

そのうえでどこか自分らしいポイントを

持っていたのが見事だったとも、

牧山は言っている。

 

個性を前面に打ち出さず、

ファッションのルールは崩さない。

 

その上で自分ならでは個性を

ワンポイント忍ばせる。

 

かなりの高等テクニックではあるが、

大人の男を自認するなら

是非とも身につけたいものだ。

 

《心得》T.P.Oの基本にのっとって

着くずしには気をつけろ

※『白洲次郎 男の金言 (ダイアコレクション)』より引用

白洲次郎氏のエピソードからも

一般社会においては個性と調和が求められるのが

理解できますでしょうか?

 

さて、茂木健一郎氏の言動を見ていくと、

エニアグラムのタイプ4が強く反応します。

 

タイプ4の中でも健全度や成長度の違いによって

かなりの違いがあり、程度の差は大きいのですが、

あるタイプ4の人の口からは

『ルールとは破るためにある』と

豪語する人もいました。

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さて武田鉄矢氏の下山の話は

いろいろと広められているようですが、

ぐーぐる先生で検索して出てきたページから引用しますと

武田鉄矢氏が『徹子の部屋』で語ったお話として

「私は今までとても元気にやってきていたので、

なんでうつ病になったのかわからなかったのです。

本をたくさん読みました。

 

そうしたら河合隼雄先生の書かれた本に

とてもいいことが書かれてあったんです。

 

人生は山登りのようなものだと。

頂上まで登ったら今度は下山します。

 

下山のない山登りは遭難というんですね。

 

しかも登るよりも降りるほうがむずかしいんです。

人生も頂上まで登ったら今度は降りていく。

 

それが成熟するということなんだそうです。

 

それで思いました。

これまで自分は山を登ってきたんだと。

 

中年になって、

これからは山を降りていくんですね。

 

降りていくのが成熟することだなんて、

なんだか矛盾するようですが、

でも確かにそうなんですね。

 

時間をかけて 登ってきたのですから、

降りるのもゆっくりでいいんです。」

※Irregular Expression? 2010年7月20日付ブログより引用

このお話を読んだときにピンと思ったのは、

よく人間は他の人のことはよく分かっても、

自分のことはよく分からない中で

生活をしています。

 

以前の僕もそうでした。

 

ところがそういう状態で個性を出していくと、

どうしても同じような状況で

同じようなトラブルに見舞われたりします。

 

今回、この武田鉄矢氏が話したのを

私のブログでも書きたいなと思ったのは、

山登りは言い換えますと

自分が分からない状態で

個性を表出している状態で、

 

下山は自分の個性だけに固執した生活から離れて、

老子『他者を知ることは知恵。自分を知ることは悟り。』の

生き方ができること。

それがいわゆる人間としての成熟であると

僕はイメージとして捉えるようになりました。

 

でも、茂木健一郎氏は

たぶん何でも多様性と言ってきた辺りが

自分に酔い過ぎて遭難している状態で、

だから脳科学者という肩書だけで

すべて正しいことを言っていると受け止めないで

自分で精査する必要もあったりするでしょう。

 

さて、私が茂木健一郎氏のツイッターアカウントを

フォローしなくなってから久しいのですが、

テレビ朝日系列で放送された『しくじり先生』に

出たときに


(写真:テレビ朝日『しくじり先生』から)

茂木健一郎氏のことを、

“茂木ってる”と揶揄されているとのことですが、

この造語を創った人は秀逸さがありますね。

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