大川小津波訴訟問題をブログで取り上げるに至った経緯について

先月11日で東日本大震災から

7年の年月が過ぎました。

多くの尊い命が失われ、

遺族や被災者が今なお苦しんでいる状況を考えると

胸が痛くなる思いです。

 

さて、そんな状況下で

なぜ私が大川小津波訴訟問題を書くに至ったかを

まずは書いていきたいと思います。

 

たとえば日本の裁判例で

一人殺しただけでは死刑にならないという

前例踏襲で同様の事件の判決が行われています。

 

(まず死刑制度の是非については

脇に置いて読んで頂きたいのです。

私がこれを例に書いたのは、

時代背景も検証せず、

1回判例基準ができると

前例踏襲ばかり繰り返す例として

あくまでも書いただけですので…。)

 

そして、この大川小津波訴訟問題は

今後の自然災害における訴訟の際の

判決ベースとなるような感じがしていて、

それならばあらゆる角度から検証して

判決を下して頂きたい思いがありました。

 

ただ最愛のお子さまを亡くされたご遺族のことを思うと

本当に書くべきことなのか

実は1年以上も悩みました。

 

そして僕が遺族の立場だったら

こういうことを書けるのかと問われたら

たぶん書けないだろうと思いました。

 

それだけに苦悩の毎日でした。

 

そして、この悩んでいる間に

僕以外の誰かが気づいて欲しいと

願ったことさえありました。

 

でも、今月26日に

控訴審判決が下されるのを前にして

この大川小津波訴訟問題について

私なりに感じていたことを

書いていく時期が来たと判断し

今回書いていくことにしました。

 

最後までお読み頂けましたら幸いです。

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緊急時に人間は正しい判断ができるのか?

まずは、たとえば日本では、

1972年の千日デパート火災

1973年の大洋デパート火災などの

大惨事が残念ながら発生してきました。

 

こういう大惨事の後に、

後々検証してみると

生き延びる(逃げ出せる)ルートはあったものの

その答えを見つけ出せずに

残念ながら命を落とした人も多くいます。

 

と考えますと、

人間は緊急時に正しい判断が

できる生き物なのでしょうか?

 

もし仮に今までの人類が緊急時にも

全員正しい答えを見つけられて

生きて生還してきたのに、

今回の大川小学校の先生たちだけ

正しい答えを導くことができなかったとすれば、

教員の過失は大きいと考えますが、

 

もし多くの人が緊急時に

生還ルートを見つけられず

命を落としているのでしたら、

 

人間が判断するという“人的要因”は

考慮された判決になって欲しいと

私は考えています。

7分間…

防災行政無線や市の広報車が

学校に向けて大津波警報発令を伝えており

遅くても津波が襲来する7分前には

教員たちは情報を得ていたとのことでした。

 

でも、ここで問題なのは

防災行政無線や市の広報車が

どういう内容を伝えていたのでしょうか?

 

たとえば『この地域の人たちは裏山へ逃げろ』と

答えを教えたにも係わらず

教員たちは指示に従わなかったのでしたら

重大な過失があると私は考えます。

 

でも『津波が北上川河口の松林を抜けた』という

情報提供だけだとしたら、

教員たちがいよいよこの避難場所が安全ではなく

この地を離れなければいけないと認識し、

逃げる場所に決断を下すとなれば

その決断するまでの時間が必要になり、

高台への避難場所を決める“人的要因”を考えれば

逃げる時間は7分もなかったことも

考慮はされて欲しいと私は考えています。

 

これは映画『ハドソン川の奇跡』の映画でも

機長は自分の判断が正しい(川に着水するしかない)と思っていましたが、

国家運輸安全委員会は

「乗客を無茶な着水で危険にさらした」との

疑義を向け、容疑者扱いにしました。

 

そして国家運輸安全委員会から向けられた疑義により、

機長は自分の判断は誤りだったのか?と

自信を一時失いますが、

何かが違うと感じ始めました。

 

それは国家運輸安全委員会が、

人が判断するという

“人的要因”を配慮せずに判断していることに

気づいたからという映画で、

この映画においては緊急時における機長の判断の方が正しくて、

逆に冷静な立場で事後に考えた国家運輸安全委員会の人たちの方が

逃げ道のルートを誤ったケースといえ、

それだけ人間というものは

判断を誤る動物であるというのを

印象づけた映画にもなりました。

登山者は全員を生還させるために

さて、私は登山をしたことはないのですが、

登山者からの話を聞きますと

登山者全員を無事に生還させるためには、

体力が一番ない人や、一番遅いペースの人に

合わせることが大切だということを聞いたことがあります。

 

今回の避難場所が中学校なら

中学1年生と中学3年生の体力差も

そんなにないと思いますが、

今回の被災場所は小学校で

小学校1年生から小学校6年生までの間には

あまりにも体力差があります。

 

もし登山者のルールのように

全員を生還させようと考えるとしたら、

小学校6年生に合わせるべきなのでしょうか?

小学校1年生に合わせるべきなのでしょうか?

 

これは僕の憶測ですが、

先生にとって生徒一人ひとりは大切な子、

どの生徒もまんべんなく愛していたからこそ

全員を助けたいと考えるのなら

一番体力のない小学1年生に合わせようと

したのではないでしょうか?

 

そうすると急斜面の裏山では

倒木の危険性もあったので、

三角地帯を選択したのは

判断として大きな誤りでしょうか?

 

裏山の斜面は過去に3年生などが

毎年3月にシイタケの原木を運ぶ作業を行っていて

児童が登るのが困難だったとはいえない。

【仙台地裁判決の要旨の一部】

 

その裏山が“平時”に小学3年生が登れたことは理解したのですが、

生徒全員救出を考えれば、

“緊急時”に小学1年生が登れる斜面だったのかが

裏山選択への判断基準になるのではないでしょうか?

 

もし全員を救出することなど考えなくていい、

助けられる生徒だけ助ければいいというのでしたら、

今回の裁定で裁判長は

「生徒全員を救出することなど考えなくていい」と

言い切って欲しいのです。

 

そうすれば今後の自然災害において

教員の負担は少なくなり

心が救われるわけですから…。

 

さて、私の小学校時代を思い出しますと

避難訓練では校庭に全員が避難し

安全が確認されたのちに

各班に分かれて帰路につく

訓練は受けました。

 

ただ、体力のある高学年と、

体力の少ない低学年で

分散避難することは

引率する先生も分かれるわけで、

安全を確保できる避難ができるかは

難しくなると私は考えます。

 

そう考えますと“全員で”避難する道を

選んだのではないでしょうか?


(写真:朝日新聞2016年10月22日紙面より)

裏山は安全なのでしょうか?

今回裏山へ逃げれば良かったというお話ですが、

確か裏山は急斜面で地滑りの怖れや

倒木の危険があり

裏山への避難には先生たちは躊躇していたと

記憶しています。

 

たとえば第二次世界大戦で

日本は原爆を広島と長崎、2か所へ落とされ

尊い命がたくさん失われたことから、

「もっと早く戦争を止めていれば良かったんだ」という

国民の声はありますが、

これはその後どうなるか答えを知っているから言える結果論で、

リアルタイムの未曾有の状況下で、

答えが分からない中、

答えを探し出すのは

とても困難な作業になります。

 

もし仮にもう一度大津波が押し寄せ

今回の経験値から裏山へ避難したら、

今度は裏山で地滑りや倒木で死者が出ました。

そして事後検証したら

他に逃げて生還できるルートがあったとしても

裏山で良かったんだ!となるのでしょうか?

 

人間の心理として、

そうはならないと思います。

 

今回と同様、

なんで安全な場所へ誘導せず、

危険な裏山を選んだんだと

非難すると思います

(それは事後、正解を得ての結果論だからです)。

 

そう考えると、あの状況下で

裏山は絶対安全だという保障が事前にない限り、

裏山への避難が正解というのは

ちょっと酷なような感じも

私からは受けるのです。

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行政側の不手際について

今回の大川小津波訴訟問題では

行政側の不手際も責められていますが、

私たちは日常の生活の中で、

こういう場面を見かけることがあります。

 

もちろん管理する側は

巡回して管理は行っているはずですが、

24時間365日その場所を監視していることは難しく、

近隣の住民が、管理が行き届いているかの

チェックは求められるのではないでしょうか…。

 

※他の参考例として、

『警察署長に「横断歩道新しく」 児童が手紙、願いかなう』というニュースが

先日ありました⇒詳細はこちら

 

このニュースでも

行政の行き届いていない箇所を

指摘しているのは近隣住民であります。

 

さて、たとえば今回の自然災害では、一度、

広域避難場所へ逃げれば安全という神話が

崩れました。

 

では、たとえば現在、

全国の海岸近くの広域避難場所では

津波が発生した場合、第二避難場所、

またはこういう非常事態になったら

ここから離れて違う第二、第三の避難場所へ逃げてという

非難誘導のルートを示している場所が

全国でどれくらいありますでしょうか?

 

そういう対応を行うことが

今回の自然災害からの教訓であると

私は思うのです。

 

ちなみに私が住んでいる横浜では

かなり内陸で津波の怖れがない地域でも

このような表示がされるようになりました。

 

強ち、この取り組みをバカにできないのは、

自然災害においては

想定外のことも起きることが

今回の自然災害で分かったからです。

 

今回被災した東北地方では

過去に何度も津波の被害を受けていたにも係わらず、

大川小は津波の想定外となっていて、

近隣住民も津波が押し寄せる地域と

考えていなかったことを考えると、

古くから住んでいる住民さえも

想像できなかった不測の事態について、

行政側にだけ責任を押し付けるのは

私はあまりにも酷なような感じも受けました。

あとがき

最初にも書きましたが、

この大川小津波訴訟問題に関しては

あらゆる角度から検証して

判例を下して頂きたいというのが

私からの願いで今回書きました。

 

どちらかに有利なことを書けば、

逆に不利な立場に立たされた側からは

妬まれることになると思います。

 

でも今回の判例が

今後の自然災害における前例になると考えれば、

あらゆる角度から検証されないまま、

裁定が下されることにいささか疑問を感じ、

今回書いた次第であります。

 

別に私は行政側の味方で書いたつもりはなく、

中立的な立場として書かせていただきました。

 

どうかご容赦くださいませ☆

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