1月8日に『“事実”と“解釈”の違いについて 』について
書いてきました。
読んでいない方は⇒こちら
今日は『“事実”と“真相”は違ったりする』について
書いていきたいと思います。
まずは
浜田広介『泣いた赤おに』(1933年発表)
ドコマデモ キミノ トモダチ
心に刺さる離別の悲しみ水田が広がる地域に、
島のように浮かんだ相森山。浜田広介は
山形県高畠町での子ども時代、
この小さな山でよく遊んだ。木々に囲まれた猫の額ほどの頂には古い社が立つ。
今にもおにが出てきそうな雰囲気だ。物語の結末はせつない。
山の一軒家で暮らし村人と
仲良くなりたいと願う赤おにのため、
青おには一計を案じる。自分が村でわざと暴れ、
それを赤おにが退治すれば、
村人は赤おにを見直すはず――。計画は成功した。
だが、2人の本当の仲が
村人にばれるといけないと考え、
青おには二度と戻らない可能性もある旅に出る。青おにが残した貼り紙には旅立つ理由と
別れの言葉が書かれ<ドコマデモ キミノ トモダチ アオオニ>
と結ばれていた。
貼り紙を繰り返し読み、
赤おには涙を流す。青おにの友情も胸を打つが、
自身の望みと引き換えに
仲間を失った赤おにの悲しみが心に刺さる。(後略)
(讀賣新聞2014年8月3日の
日曜版より引用させていただきました)
『泣いた赤鬼』のストーリーについては⇒こちら
こういう背景まで知ると、
青おには本当は悪い鬼ではなかったことが
伺えます。
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さて、たとえば、昨日、僕は
NMB48の山本彩さんへ
こういうツイートをしました。
このつぶやきだけを読むと、
僕は履正社を応援していたようにも見えますが、
私は単に山本彩さんが好みそうな話題を
つぶやいただけで、
この試合をどちらかのチームへ偏って
応援していたわけではありません。
というように、
以前もNOTEで『見えているものだけでは・・・≪前編≫』でも、
見えているものだけで判断する危うさは書いてきましたが⇒こちら
“事実”と“真相”は違ったりすることもあります。
たとえば私たちアナログ世代の小さいころは、
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』
これは川端康成氏の小説「雪国」に出てくる一文ですが、
これを読んで、どういう情景が浮かんできますか?と
“行間を読む”トレーニングを学校で私たち世代は習ってきましたが、
いまの若い世代は映像を見て、
見えたものがすべての感覚に
捉えてしまう傾向が強いのですが、
“事実”と“真相”は違ったりすることは
理解しておかないと真相に辿り着かなかったりもします。
さて、最近報道では、
K氏の発言に注目が集まっていますが、
K氏が〇〇と発言したこと自体は事実でありますが、
その発言自体は事実であったとしても
アリバイを調べたら真相、真実ではなかったりして、
マスメディアも報道の仕方に苦しんでいるようですね。
でも新たな課題が生まれたら、
どうしたら解決できるのか悩むことで
新たな表現方法が生まれたりするので、
頑張って乗り越えて欲しいですね。
今日は簡単ですが、
『“事実”と“真相”は違ったりする』をテーマに
少し書いてみました。
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