勝負の厳しさをどうしたら伝えられるか模索した結果…

勝負の厳しさをどうしたら日本人アスリートへ伝えられるのか?

考えに考えた結果、

分かりやすいイメージとして私が導き出したのは“戦争”だ。

 

たとえば自分が戦闘機のパイロットだったとしましょう。

出撃命令が出され、戦地へ飛んだ。

 

ところがとてもとても厳しい戦いとなり、

仲間の戦闘機が何機も撃ち落とされる中、

自分はなんとか命からがら生きて帰還ができた。

 

そういう心境に陥ったら、

こんな操縦(戦い)をしていたら、

次は自分も殺られてしまう…。

 

相手に殺られないためには、

どういう戦法だったら勝てるか?

生き延びるために

必死で(次の出撃までに)答えを探したり、

聞き回ったりするはずだ。

 

これが生きるか死ぬかの境地で戦っている

人間の心理や行動でしょう!

 

では、なぜ私は、ブログタイトルで、

「日本人アスリートは『自分は負けず嫌い』とよく言うが、

私からすると負けることが好きとしか思えない」と書いたのか!?

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まずは日本人アスリートを検証してみましょう

たとえば、2016年4月の

全日本柔道選手権、準決勝で敗れた原沢久喜選手が

敗戦後に「緊張はなかった。

でも、体が動かない。

自分の柔道ができない。

プレッシャーというのは、

そういうものなんだなと思った」

 

自分が戦闘機のパイロットで戦地へ出向き、

戦っている空中戦でこういう状態に陥りながらも、

自分はなんとか命だけは取られずに

運良く生き延びて生還できたとしたら、

こんな戦い方をしていたら

次は殺される、と

必死にどうしたらそういう心理状態でも

良いパフォーマンスが出せるのか、

答えを探す旅に出たり、

周囲に答えを聞き回ったりするのが

普通ではないでしょうか!?

 

これは例に取り上げた原沢久喜選手だけの

問題でもない。

 

たとえば2010年10月に行われた

フィギュア・スケートのNHK杯で

村上佳菜子選手は

「曲がかかったら、突然に緊張した」となり、

3度転倒をした。

 

こういう例を挙げたら

キリがないほど日本人アスリートは出てくる。

 

たとえば、2010年4月のオーガスタ、

石川遼選手、体ガチガチ「自分に負けた」。

 

2009年8月のリコー全英女子オープン、

上田桃子選手、「体固まる」パット入らず。

 

2013年8月の女子バレーボール・ワールドGP、

ホームの重圧、ミス連発で格下に初黒星。

 

2017年1月、

アメリカでのプロデビューを果たした

畑岡奈紗選手は初日後に

「最初から最後まで緊張していた気がする」

 

これはほんの一例に過ぎないのですが、

生きるか死ぬかの境地で戦っていれば、

こういう敗戦後に、

答えを探す旅へ出るはずだが、

答えを探す旅に出ている雰囲気を感じたことがない。

 

なぜ、そういう行動に出ないかというと、

生きるか死ぬかの境地に身を置いて戦っていないからだ!

ここで日本と世界を比べてみましょう

1994年サッカー、ワールドカップ・アメリカ大会で

エスコバル選手はコロンビアの守備の要として出場していましたが

決勝トーナメント進出のために負けられないアメリカ戦で

オウンゴールをしてしまい

帰国後に銃撃され射殺されてしまうという

悲しい出来事があったり、

 

むかしセルジオ越後さんが話していましたが、

『ブラジルでは、(ブラジル)代表が負けたら、

負けた瞬間に(ブラジル選手を起用している)CMが

止まる(流れなくなる)。

逆効果になるから…』

要するになんでこんな選手

CMに使っているんだと暴動が起きるからでしょう。

 

バンクーバー・オリンピックで

キム・ヨナ選手は韓国企業の多くから

CMに起用されており、

あの状態で、しかも日本人に負けていれば、

感情の激しい韓国人からは大バッシングを受けていたでしょう。

 

世界は、日本のように“負けを売り”にできる国とは違うのが

少しは理解していただけましたでしょうか!?

 

だから外国人選手は勝負となったら

必死に戦う。

 

そういう戦い方をするから、

たとえば1998年フランス・ワールドカップに出場した城彰二選手は

「ワールドカップのピッチは

武器のない戦争でした。

1対1のときは、

相手DFから殺されると思うほどの

殺気を感じた」経験をし、

 

松井大輔選手はフランスにいたときに、

「PKを外したら車を壊されるんじゃないか」

「最悪の場合、殺されるかもしれない」経験もした。

もちろん戦争とスポーツは違う

最初に勝負の厳しさのイメージとして戦争と私は書きましたが、

もちろん戦争とスポーツは違います。

 

スポーツはルールが定められ、

ルールの範囲内で行われるものである。

 

そして試合前には、お互いの健闘を誓い合い、

試合が終われば同じ競技を愛する者として

お互いの健闘を称え合う。

 

そしてスポーツにおいては戦いの最中でも、

たとえば、ゴルフでは

同じ組になった人たちは1つのパーティーと言われるが、

たとえ同伴競技者が優勝争いをしているライバルであったとしても、

ロストボールになったりアクシデントのときには

一緒にボールを探したりすることもあったり、

 

たとえばテニスでは、

相手の好プレーには

『今のあなたのショットは素晴らしかったわ』と

ラケットを使い拍手をすることもある。

 

サッカーでは、プレーが止まったときに、

倒れた相手選手を起こすのを手伝ってあげることもある。

 

しかし、インプレー中は、

(ルールの範囲内で戦うことや、

フェアプレイの精神で戦うことは前提であるが)

生きるか死ぬかの境地に立ち、

殺るか、殺られるかの精神で、

自分が殺られたくなければ、殺るんだ、

という強い気持ちで臨まないと

気持ちで相手に負けてしまう。

それだけ世界の勝負とは厳しいものなのです…。

そういう生きるか死ぬかの境地でつねに戦っていれば…

そういう生きるか死ぬかの境地に

つねに身を置いていれば

精神力はつねに磨かれていき、

どんな局面でも同じようなパフォーマンスが出来るように

なってくるのです。

 

しかし、平和ボケした日本人アスリートは、

たとえば、石川遼選手は

2015年3月「パーマー招待」大会へ向けて、

難コース、油断せず挑むと言っていたが、

生きるか死ぬかの境地に身をつねに置いていれば、

こういう発言に果たしてなるのでしょうか!?

 

もちろんこういう疑問を感じる日本人アスリートは

例に挙げた石川遼選手だけではない。

 

よく戦いの本質がわかってないアスリートは

「気持ちはチャレンジャー」とか

「決勝戦のつもりで」とか言ったりしますが、

このあたりの発言をする選手は

本当の勝負というものがわかっていないし、

おこがましいのでは!?と選手の“驕り”を

私などは感じてしまうのです。

勝負の究極の答えは、殺るか、殺られるか

勝負というものをとことん突き詰めていくと、

究極の答えは、

殺るか、殺られるか

Kill or be killed

 

ただ、この言葉を平和主義者の多い

日本で使うと、どういう意味で、

どういう背景から出て使っているかを示さないと

批判を浴びるかもしれない、

そのぐらい強烈な表現であることは確かだから、

この言葉を使う場所と人は選ばないといけないでしょう。

さて、最後に、

ブログタイトルで、

「日本人アスリートは『自分は負けず嫌い』とよく言うが、

私からすると負けることが好きとしか思えない」と書いた理由は、

『戦争だったらお前なんか疾っくの疾う(とっくのとう)に

死んでいるような生き方しかしていない日本人アスリートばかり』だからです…。

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【追記】2017年3月31日 10時10分

私は過去に強いチームや強い組織を築き上げる過程においては

負けることもある、と書いてきたことはあるけれど、

闘争心を見せなかったり、簡単に負けていいなんて

一言も書いたことはないですから…。

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